わたしの半生

17歳、高校3年生。中学1年生で不登校を経験。

自分がどれだけ恵まれているのかと言う話。

私は高校一年の冬に転校した。

転校した学校では嫌な思い出ももちろんあるけど、楽しい思い出もそのぶん多い。

そんな中でかけがえのない仲間を手に入れた。

でも、いずれもその仲間は過去を抱えていた。

今日はそんな、仲間の過去を紹介します。

 

【Part-1】

小学4年生で両親が離婚した。自分の親権を持ったのは母親だった。母親は容姿端麗、文武両道。それでも母親はとても苦労していた。母親の父、つまり自分の祖父が認知症になった。そして多額の借金を抱えるようになった。そして家を売り、学校のある地域に引っ越してきた。転校した学校では「顔」がおかしいといじめられた。付き合った女には「記憶障害になってあなたと付き合った記憶がない」と言われたり、そのまた他に付き合った彼女は浮気をした。そんな彼が目指す夢は、大学に行って借金を返済する事。

 

【Part-2】

中学生の頃、突然母親が自殺した。鬱だったらしい。らしいというのは、後から知ったからだ。学校から帰った後、母親が死んでいるのを発見した。怖かった。それからは立ち直れなくなった。それでも今は学校に来続けている。父親だけに負担をかけまいと、家事全般を彼が担っている。そんな彼の夢は、特になし(笑)

 

【Part-3】

小学2年生で父親シンガポールに勤務することになり、一家シンガポールに在住した。四年後、また戻ってくるけれど帰国子女ということで虐められた。そんな彼の癒しは有村架純。そして夢は生物系の大学に行って就職する事。

 

【Part-4】

幼少期から母親から虐待を受けていた。父が何度止めても、父の目を盗み母の暴走は止まらなかった。冒険家な彼は、1人でカンボジアに旅行して半年帰らなかった。そんな彼も、大学受験をしようとしている。

 

【Part-5】

母親の過保護に耐えられず、ずっと母から逃れることを望んでいる。母親は他人の前だといい親を演じるが、実際は過保護のあまり、暴力も。

 

【Part-6】

父と母が二歳で離婚、父の記憶はなし。その後、すぐに祖父母の家に預けられ、母はパチンコ三昧。小学2年で母親が再婚。数年後に母親と義理の父の間に長女誕生。小学5年生で東日本大震災を経験。一緒に住んでいた祖母は自分を迎えに行こうして津波にのまれる。次の日、姉が迎えに来て匿ってくれていたが、1ヶ月後に数年会っていなかった母と義理の父が迎えにくる。そして有無を言わさず東京へ。義理の父から虐待を受け、夏休みは自分以外の家族で旅行。その間部屋に閉じ込められる。そんな状況をおかしく思った同級生と担任が自分のいる家へ。そして保護され、児童相談所へ。現在は養護施設にて育っている。自分のものはすべて自分で買う。今は来年、高校卒業に施設を出る為、その後のために貯金中。

 

その他にもたくさんのエピソードがある。

ここでわかるのは、自分がどれだけ恵まれているか。

 

私には父も母もいて、そして父と母が大好きだ。不自由もない。

そんな生活にしてくれているのは両親。

 

感謝しなきゃいけない存在。

いつもありがとう

勉強面が追いつかないという心配

まず、私がぶち当たった問題はこれです。

 

戻ったとしても勉強に追いつけないのではないか?いくら友達や先生が大丈夫だと言ったとしても、自分では行くまでモヤモヤします。

 

けれど、行けていないことは

全教員、全クラスメイトがわかっています。

 

最初から指したりすることは

私の経験上全くありません。

 

それでもやはり不登校の子は根が真面目な子が多いので「完璧な自分」でありたいと思ってしまいます。

 

勉強もできないところは見せたくない、など変なプライドが邪魔します。でも、行かない方が遅れていくことも頭では分かっているはずです。

 

ここで1度、100%完璧な自分から

5割6割あれば十分だという自分になることが大切だと思います。

 

気持ちも少し軽く、

できないのは当たり前と振り切れれば簡単。

でもそれは難しいです。

 

常に50%、60%でいることが大事です。

ずっと全力で100%だと、またいつか折れます。私がそうであったように。

 

そして勉強できるできないなんて

そこまで他人は気にしていません。

 

なぜなら自分のことで精一杯だから。

 

自分に置き換えてみるとよいです。

自分がもし学校に毎日行っていて、不登校の子が登校してきたら嫌ですか?そんなこと思わないはず。それと一緒で久々に登校してきた子が勉強が出来ないからと言ってなにか嫌な気分になりますか?他人のことなのに。

 

そう思うことが重要だと私はこの数年間で学びました。そして勉強なんて、みんなすぐ忘れます(笑)

 

受験生になってやっと中1からやり直して基礎を高めていくものです。頭がいい人がいれば、あまり勉強が得意じゃない人もいる。だからってあれこれ言う人は放っておけばいいと思います。その人は絶対に人生に不必要だから。

 

そんな人間にどう思われてもいい、と思うしかありません。そう思えたら本当に強くなれると思います。

 

勉強面は気にしなくていいです!!!

しっかりとサポートしてくれるし、私の時は私があまり触れて欲しくないのを先生方がわかってくれていたので、授業中も余計なサポートもなく、放っておいてくれました。放っておくというよりは、他の生徒と同じ扱いです。

 

休んでいた時のプリントも見せてもらうだのして、追いつけば大丈夫です。

 

取り敢えず行ってみなきゃ分からないことが沢山あるはずです。がんばりましょう。

はじめまして

今日からブログを始めていくことにしました。

 

私は春から高校3年生のごく普通の女子です。

父と母、そして妹の本当にごくごく普通の家庭で育ちました。

 

小学生までは順風満帆でした。

友達も多く、放課後は友達と遊びに暮れ…そして週に2回、塾に通っていました。塾に通い、今となっては笑い話になってしまいますが、自分で言うのもなんですが「期待」されていた子だと思います。地域で一番の高等学校にも入れるだろう、と言われていました。

 

そんな私が、挫折という挫折を初めて経験したのは中学1年生の夏休み終わりです。

 

始まりはとてもちっぽけなものでした。

私の中学校では職業体験があり、1組4人ずつに分かれて色々な職業を体験します。私も同じようにスーパーに3日間体験することが決まりました。

 

夏休み前、初めての顔合わせ

たまたま、(これは本当に)体調不良で学校を休んだ時に顔合わせがありました。

 

男子2人、女子2人。その構成でした。

私は1-5組でした。けれど、その構成は1-1組が2人、1-4組が1人。ましてや、私以外の全員が同じ小学校でした。

 

中学1年生のその頃は、部活の仲間以外には小学校が同じだったメンバーくらいしか、直接的な関わりはありませんでした。

 

もちろん、私はいじめられていたわけではありません。そのメンバーも、女の子が1人。私に詳細をメールしてきてくれました。そしてもう1人の男の子も心配して、次の日に声をかけてくれました。

 

夏休みにその体験先にご挨拶に行くことになりました。私はその時、シンガポールにいました。もう1人の女の子も行かないとの事だったので、しっかりと男の子たちにも断った上でシンガポールに向かいました。

 

そう、何らおかしいことはないのに

その時の私は何故か、その子たちと顔を合わせるのが怖かったのです。新学期、学校に行っても避けて避けて。避けているうちに、ああ。もう無理だ。と自分の心の中で諦めがついてしまいました。

 

そして職業体験、3日間とも参加しませんでした。顔を合わせたくなかったからです。

 

そして、今度は職業体験も休んでしまった。尚更顔を合わせたくない。そんなちっぽけな理由で私と母親の長い戦いは始まりました。

 

その頃は、私が知らなかっただけかもしれませんが今のようにあまり「不登校」という言葉は浸透していなかったように感じます。だからこそ尚更恥ずかしくて、今すぐ消え去ってしまいたいと思うくらいでした。

 

色々な手を尽くしました。クラスの子達からメッセージも頂きました。友達がいなかったわけでもなく、友達から何度も何度も連絡が来ていました。○○から行けるかも、いや○○から。そんな風に先延ばしにして、今思うとそんなことをしていたのに何故友達でいてくれたのだろう、と疑問に思います。

 

1人、幼稚園の頃から知っている幼馴染がいました。その幼馴染みからは、毎日時間割だけが書いてあるメールが届きました。ああ、明日は時間割通りじゃないのか。ああ、明日は体育があるのね。…その子のメールで学校の状況がわかっていました。時間割の最後に、今日○○とあなたの話をしたよ!だとか、私を勇気付けてくれる言葉がたくさんありました。

 

わたしは、サポート教室のような中学校の保健室の隣にある教室に通い始めました。最初こそ、恥ずかしくて仕方なかったのです。だけど、行くたびにクラスのみんなが会いにきてくれました。男子が給食を持ってきてくれたり、昼休みには男子も女子もみんな合わさったり。授業の休み時間ごとに、三階の教室から一階の教室まで来てくれました。それも、ホールを渡らなくてはならないのに。

 

今思えば、そこまで恵まれていたのになんで私はあそこにいたんだろう、とバカバカしくなります。だけどその時の私は、いっぱいいっぱいだったんだと思います。

 

結局、1年生は1度も授業をやっている教室には行きませんでした。体育をやっている時に教室に行って、ああみんながいるここに戻ってきたい。と思っていました。

 

でも中学2年生になり、直前まで今までに経験したことのない緊張と焦りを感じながらも始業式、学校に行きました。友達と待ち合わせをして。友達のところに行ったらもう絶対に行かなきゃいけないことになる、後戻りはできない。それは分かっていました。

 

「ええい!」そんな気持ちで友達の前に立つと。その友達は嬉しそうに笑ってくれました。廊下を歩くたび、ああどうしよう。恥ずかしい。そう思っていました。誰も話しかけてはこないのに。(笑)

 

そして教室に着くと、同じクラスになった子。1年生の時のクラスメイト。何人かがすぐに私の名前を呼んで抱きついてくれました。「よく来たね!」と、みんなが自分のことのように喜んでくれました。

 

私は始業式の中で一番、覚えてる言葉があります。それはその年から赴任した、女の先生の言葉です。

 

「あなたは1度、苦しむことから逃れる方法を知っている。だからきっと、また逃げたくなる。そして簡単に逃げれてしまう」

 

この言葉が妙に今でも心の中に一番残っています。それだから、私は中学3年生の時。また逃げることを知ります。

 

きっかけはまた、些細なことでした。

受験生という壁にぶつかり、それでも自分は1度みんなより遅れているから、と毎日塾に通いながら勉強に励んでいたときです。

 

気づけば夏休みに塾で勉強をしていた時間は、200時間を超えました。

 

親は「無理をするな」と言っていました。

加減を覚えず、自分の限界にぶち当たり。

塾に向かうことをやめてしまったのです。

 

9月、10月は学校に通っていました。

それでも、学校に来ているのに塾に向かわない。それが言い訳がつかなくなり。学校にも向かわなくなりました。大事な時期に逃げました。

 

それでも。合唱コンクールだけは行ったのです(笑)自分でもなぜだかわかりません。それでも、自分は合唱コンクールが1年の行事の中で一番好きだったことが原因だと思います。文化祭にも出演しました。「不思議の国のアリス」の白の女王の役で。

 

でも、それで完全に学校に行けたかと言えば答えはNOでした。そのあとは数えるほどしか行かず、けれど卒業式には出ました。

 

校長には出られなかった場合は午後に校長室で卒業式をやりましょう。と言われていました。

 

なぜ行ったのか。

その理由は、3年間の終わりがそんな寂しいなんて。と自分で思ったからです(笑)

 

自分の子供ができたとき、中学の卒業式に出てない。なんていう思い出は悲しいと思ったからです。そして友達に囲まれ卒業し、色んな人と写真を撮って、なぜか卒業することを惜しんでいた私がいました。

 

私は、学校に向かってしまえば友達に囲まれ、楽しい日々を送っていました。そう、「行くまで」です。不登校になる子は、私は根が真面目な子が多いと思っています。行った後のことを凄く考えてしまったり、もし○○になったら。ということを重く重く考えてしまうからこそ、学校が遠のいていくのだと思います。

 

今になるとそんなものは二の次だと思います。

私は勉強面が一番不安でした。

指されても答えられない。嫌だ。と学校に遠のく原因がありました。

 

でも、久しぶりに学校に行って授業が分からない。なんてことは当たり前です。そんなもの、教員だってクラスメイトだって分かっています。それは、当時の私も分かっていました。

 

だけど、そのような待遇をされる自分が恥ずかしかったのです。プライドが無駄に高いんです😭(笑)

 

プライドを捨てたとき、人は強くなります。

開き直れば、簡単。それが難しくて、それが出来たら苦労しないよね。

 

私は、最終的には自分を追い込む形でした。

もしも行ってなにか言われたらその時すぐに出て来てやる!このままじゃもっと遅れるけどそれでいいの?と自分に問いかけていました。

 

と、偉そうにしている私ですが

私の不登校人生はまだ続きます。

 

高校1年生になっても続きました。

理由は今でもあまりわかっていません。

逃げたかったんだと思います。

学校に行ってはすぐ帰って来て、という繰り返しをしていました。

 

それも、進級できないという担任の言葉があるまで「どうにかなる」と甘く見ていました。

転校はしたくなかった。だけど行けない。カウンセラーの元に渋谷まで通ったり、赤坂まで通ったりしていました。

 

どちらの先生も、私の話をしっかりと聞いてくれます。そして、絶対に肯定してくれました。

けれど、現実を見た時。遅かったんだと思いました。

 

そして1月から、新しい学校に転校しました。不安ばかりでした。もう友達なんていらない、勉強だけしていようと思っていました。

 

それでも1月から3月まで。時々休みがちになりながらも登校しました。学校がやっと楽になって来た頃でした。

 

5月になり、またその学校でも不登校を繰り返すようになりました。違う教室に登校しては1人で寂しく勉強していました。友達からの束縛に耐えられず、(これも今となっては言い訳かもしれませんが)休むようになり、結局6月の泊まり研修は行き、その後も何日か行った後に休むようになりました。

 

それでも5月にアルバイトを始めました。

初めてアルバイトをして、初めて上下関係の厳しさを知りました。また、お客様への態度など、色々なことを学ばせていただきました。もちろん、職場が怖かった時もありました。泣きたいくらい憂鬱なときもありました。だけど、年上の意見はとても助かるものです。環境が変わり、色々なものの見方も変わるようになりました。

 

6月には母が倒れました。

急性膵炎です。中学1年生から私の挫折をずっと隣で見て来てくれていた人です。あまりのショックに最初は動くことすらままらなかったのです。初めて弱っている母の姿を見て、病室にただ寝ているだけの母を見て涙が溢れて止まりませんでした。

 

そして、9月になり、また学校へ行き出しました。きっかけは友人のお陰です。一緒に頑張ろうと言ってくれた、友人のお陰です。そしてサポートしてくれると言った、友人のおかげもあります。その友人が今となっては、彼氏として隣にいます。

 

9月になり私は5kg以上痩せました。

最初は正直、満員電車の中にいるのもすごくキツかったです。だけどそれもだんだんと慣れ、体力がつくようになりました。

 

気付けば、10月も過ぎ。

11月に私を好きだと言ってくれる人に出会いました。正直、高校生活は諦めていた彼氏。その彼氏は、いつもいつも。付き合う前から私を支えてくれています。

 

そして気付けば11月、12月も過ぎ。

私にとっては天と地がひっくり返るほどの出来事がありました。

 

二学期の終業式のことです。

皆勤賞、という私にとっては無縁な言葉。

その皆勤賞を、頂くことができました。

 

たったの、二学期全部遅刻せず休まず行っただけ。それだけのことがどれほど嬉しいことなのか、計り知れないほど大きい喜びを感じて帰宅しました。

 

そして三学期も1度も休まず(インフルエンザにはなりました)、遅刻はしたものの精勤賞を頂くことができました。(欠席遅刻3回以内)

 

今になってわかることはたくさんあります。

少しでも今、悩んでる人の助けになれるようにこちらに今後書き記していきたいと思っています。

 

長くはなってしまいましたが、こんな人間です。よろしくお願いいたします。